INDEX
  ひとりの人間の姿に宿る宇宙
  壊れやすさを含んだ存在としての人間
  「形が立ってくる」瞬間
  混沌を鮮明に語ること
  舟越桂の何月何日の証明として


ひとりの人間の姿に宿る宇宙

     
  安東 舟越さんは彫刻家として、楠を素材とする人物像をつくり続けていますね。  
     
  舟越 木彫による半身像は、1980年に制作した「妻の肖像」が最初でした。  
     
  安東 人物像をつくるようになったのはどうしてですか?
 
     
  舟越 僕の場合は、何かをつくりたいという対象として、初めから人物にしか興味がなかったんですよね。だんだん見る目は広がってきていろんな傾向のものが理解できるようになったけれども、自分がつくるとしたら、今でも人物に関わる作品しか思い浮かびません。やっぱり人間の姿に興味があるし、もしいい作品ができ上がれば、それは人間の姿だけにとどまらない、もっと広いものを内に宿すことができるんじゃないかなと思います。何かを表わすには何かの形をとるしかないわけで、大げさに言えばひとりの人間の姿を通してでも、この世界の成り立ちというか宇宙のようなものを表現できるんじゃないかと思うんですけどもね。  
     
  安東 作家として早い時期からそう考えていたんですか?  
     
  舟越  いえ、若い頃はそんなふうに考えていたわけではないですよ。その頃はたぶん、こういう雰囲気の、こういう空気をもった人物像をつくり出したいと思っていただけで。     
長年制作してきて、小さな石の中にもひとつの宇宙があるという言葉があるように、作家がやろうとしていることは誰しもそういうことなんだろうなと感じるようになりました。
 
     
  安東 舟越さんは彫刻をつくる以前に、人間のどこを見ていますか?  
     
  舟越 人と話したりする時には目を見ていると思うけれども、記憶に残るのはたぶん全体なんですよね。彫刻にしようとする場合には、額の張りとか頬や鼻の具合とかすべてが大事になってくるのに、実際に見ている時にはその人の雰囲気や全体像のようなものを捉えようとしているみたいです。だから、いざ彫っていく段になると「あれ?額はどうだったっけ?」とか、個々のパーツでは見ていなかったということがよくあります。それで、制作中の作品の状態が「これではだめ、あの人になっていない」ということは全体の雰囲気からわかるんですけど、具体的に直すべきところを自分で指摘するのは難しいですね。プロなんだからもっとパーツパーツで把握していればつくりやすいのにとも思うんですけど。でも、逆に僕にとって、一番大事なのはたぶん全体なんだと思います。その人の全体が醸し出しているものが最終的に作品に出てこないと、僕は彫刻として好きになれないでしょうから。  
     
  安東 全体を見ているということに?  
     
  舟越 たとえば人の目を見て話している時、同時に視線の端でもって、肩から首、髪の感じとかも捉えていますよね。全体が見えてくる感じで、ある人がそこにいる姿、存在の仕方が記憶に残るんだと思います。その人がもっている空気を感じているというか……。それを表現しなければ、僕にとってはゴールがないのに走るようなものという気がします。実際に制作していく段階では苦労したり手間取ったりするんですけど、それも僕のやり方なのかもしれないし、最終的に必要なゴールは一応つかんでいるように思うんですけどね。  
     


壊れやすさを含んだ存在としての人間
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  安東 舟越さんは今までに100点を超える彫刻を制作されています。それぞれ個性は違うと思いますが、モデルになる人やイメージする人にある方向性はありますか?   
       
  舟越 それはやっぱりあると思います。少しキザな話に聞こえるかもしれませんが、その眼差しが遠くを見ているようでいて、でも結局あの人は自分の内側を見ているんじゃないかなという感じの人にモデルをお願いしてきたような気がします。僕が心惹かれるのは、短い時間であってもだいたいその人が黙っている場面を見たときですね。  
       
  安東 舟越さんがその人たちの像をつくりたいと思うのはどうしてでしょう?  
     
  舟越 たぶん、人間がもっているいろんなものの中で、僕がいいと思っている部分を作品にしたいからだろうと思います。もちろん人間は嫌な部分もたくさんもっているけれども、だからといって人間に寄せる希望を諦めることは僕にはできないし、どこかに人間のいい部分、いとおしい部分があると感じます。その人たちの姿を借りてそういう部分を表わせたらという気もちはありますね。できればその人の姿でありながら、その人以上に普遍的で人間全部を語れるような作品にはしたいと思っています。
 それから、人間のある一瞬を捉えようという気もちは僕にはなくて、人間が生きていくという時間を作品に組み入れたいと思っているので、あまりはっきりした表情にはしないようにしています。笑っている、泣いている、怒っているなどの表情に固定してしまうと、人生の中のある一瞬になるでしょ。もっと長い時間を感じられるような、いろんな表情を内包した顔にしたいと、そんなことは考えながらつくっていますね。
 
     
  安東 今現在、舟越さんは人間をどのようなものだと考えていますか?  
     
  舟越 ひとことではなかなか言えませんけど……壊れやすいものだとは思いますね。もちろん千差万別でひとりの人の中にもいろんな部分があるけれども、やっぱり全体としてはとても壊れやすいものじゃないかと。だからがんばるんだろうし、明るい部分もなければ生きていけないんだろうし、でも意外なほど壊れやすいということはきっとあると思います。それで、そう思って見ると今度は逆に、案外しぶとい、強いというところもあったりしますよね。そんなふうに思うと、あまり表情をつくれないのかもしれません。
 ただ、彫刻としていい作品であるためには、強さは絶対に必要なんですよ。僕の作品のような立体の場合には、空間や空気圧に負けない形を表わしていなければ弱さにつながってしまう。それはいけないと思います。でも、その作品が最終的に醸し出す世界としては、壊れやすさということまで含んだ存在として人間を表わしていたいなと思うんですよね。いい部分も嫌な部分も強さも弱さもいろいろもちながら、それでも立ちつくす人、そこに居つづける人というイメージがあります。「人間とは?」というときに思い描くのは、自分の中の過ぎてゆく時間を見ながら立ちつくしている人、そういう情景なのかもしれません。
 
     
  安東 『立ちつくす山』という作品集もありますし、彫刻にも山のイメージがよく見受けられます。いまのお話と何か関連がありますか?  
     
  舟越  「山のような人物」というイメージが出てきたもともとのきっかけは、大学へ向かう乗合タクシーの中で見えた裏山なんです。ある日唐突に「あれっ、あの山は僕の中に入る」と思ったんですよね。どういうことだろうと自分でもびっくりしたんだけれども、でも今あの大きさのまま入っているんだからという感じで。奇妙な経験でしたけど、その気もちはそのままとっておいて時々思い出したりしていました。それがずいぶん経ってから、人間がこの世界を見たり捉えたりすることは、たとえば宇宙空間のような大きいものまでも頭の中に入れられるということなんだと思ったときに、あの山を見て感じたことがつながったんですね。それで、そうした人間の存在の大きさの象徴として、以前走り描きした山みたいな体のデッサンを作品にしてみていいんじゃないかと思いました。その延長線上に「立ちつくす山」というタイトルもたまたま出てきたんですけれど、人間の存在への僕の思いを表わしている言葉のような気がします。  
     
  安東 タイトルには「水」という言葉もよく使われていますが、それはどんなところから出てきているんですか?  
     
  舟越 「水」も「山」と同じように、ある時自分の中で見つけた言葉です。最初の経験は、母校の中学校の水泳のコーチを手伝っていた頃、子供たちがみんな帰った後のプールで泳いだりしていた時ですね。何気なく空気を全部吐き出してプールの底に沈み、息が続く限り座り込んで周りをぼんやり見ていたんです。夏の夕方で、西陽がきらきらと水面から射し込んできては揺れて、ものすごく静かな空間と時間でした。ずっと後になって、自分を探すということはどういうことだろうと思ったときに、水の中にひとりで潜っていくようなものだという気がしたんです。探しているものが何なのか、どこにあるのかもわからないまま、深い水の中に潜って探してこないといけない。でもそれに出会えば、探していたのはこれなんだというふうに気づくんじゃないか――そんなイメージとプールの中の経験がつながったんですね。だから「水」という言葉は、自分とは何だろうというような思いを表すためにタイトルに付けている場合が多いと思います。  
     
  安東 作品はすべて、今のお話のようなことを思いながら制作されるんですか?それともその都度、テーマや考え方が少しずつ変わっていくのでしょうか?  
     
  舟越 もちろん、一点一点イメージなどは多少違いますよ。でも、これらのことはほとんどすべての作品に共通しているんじゃないかと思います。  
     


「形が立ってくる」瞬間
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  安東 実際に彫刻をつくっていく際には、どこから手がけられますか?  
     
  舟越 モデルがいる場合はもちろん、モデルがいない作品でイメージが鮮明でない場合でも、とにかくデッサンはします。まず顔の両サイド、向かい合った頬のあたりの面を描き始めます。その二つの面がほぼ現れてくると、今度は顔の長さを決定するんです。頭のてっぺんと顎の下の位置ですね。それからセンターラインを入れて、鼻の終わりとなる位置を考えながら、目や口の位置をだいたいのところで描きこみます。モデルがいない場合は、この位置でピタッときまったんじゃないかと思えれば、いけるかもしれないという気になりますね。モデルがいる作品では、この段階でいい位置にできていると思えてもパーツそのものが似ていなかったという失敗をよくやるので、後から苦労することが多いんですけど。ともかくそこから始めて、いろいろなパーツをもっと明快にし、顔の造作がほぼわかるようになった段階で首を描きます。それから胴体の形を決めていくわけですけど、胴体についてはつまらなくなければいいかなという感じで、意外に許容範囲は広いと思いますね。こんな感じで、前もって言葉でプランを立てておくようなことはあまりせず、デッサンを描きながらいろいろと試したりしていく感じです。  
     
  安東 舟越さんにとって彫刻のためのデッサンは設計図のようなものでしょうか?  
     
  舟越 ええ、設計図のつもりで描いています。作品としていいデッサンにしようと思って描くと、逆にいい設計図にはなりませんから。  
     
  安東 舟越さんのデッサンには立体感や空間を感じますが、意識されていますか?  
     
  舟越  それは意識しながら描いていますね。僕のは違いますけど、いいデッサンとは、立体感を出すための陰影などつけなくても、正しい位置に線が描かれていれば立体の形や奥行きまで感じられるものだと思います。たとえば昔の日本の墨絵は筆の繊細な線で描かれていますけど、額から頭頂部にかけての微妙な曲線の起点まで自然に感じられる気がします。僕にはそんなデッサンはなかなか描けませんし、額が終わって頭頂部に向かっていく境目などは作品をつくる上で非常に大事ですから、少し描き入れたりしていますけど。そういうふうに立体を感じられるデッサンを追いかけていくと、僕の場合は不思議なことに雰囲気もいいデッサンになるみたいです。設計図なんだと思って色気抜きで、細かいことも全然やらず、思い切って立体というものに迫っていった時に、パッと見てみるとすごくいい表情になっていたりします。雰囲気なんか構わないと思ってやった時にはじめて雰囲気がよくなるというどこか不思議な経験は、デッサンでも彫刻でも版画でもわりとあって、それはとてもうれしい瞬間ですね。  
     
  安東 そのデッサンに基づいて彫っていくわけですが、どこから始めますか?  
     
  舟越 まず頭部から彫り始めます。イメージしている首の長さよりもかなり長い寸法の楠を用意して、ある程度の長方形にしたらそこに正面の顔をデッサンし直します。僕は、紙に描いたデッサンをトレースすることはできるだけしないようにしているので、それはまた大変なんですよね(笑)。正面が描けると、目や鼻や眉や眉間などの位置を平行移動するように木材の角まで線を引いて、今度は側面に横顔を描きます。パーツなどの位置が正面図と狂わないようにするわけです。描き終わったら、デッサンの線のあたりまでチェーンソーで5センチ刻みぐらいに切り込みを入れ、その後はじめて鑿で切り込みどおりに削り落としていきます。要するに始めは、頭部の輪郭ではあるけれども実際には四角い感じのものができて、そこから要らない部分を落としながら斜めの面を出していったりするんです。その段階がすごくつらいんですよ。ある程度時間もかかるし、すぐにはいい形が出てきませんから。失敗しているんじゃないだろうかとか、デッサン以上にはきっとならないだろうという迷いも出てきて、この形は見られたくないという段階が必ずありますね。
 それでもそのままがんばっていくと、ようやくあの顔に近いものが出てきたと思えるような状態になって、後は鑿で彫り進みます。かなり彫り進んでからですけど、「形が立ってくる」と感じられる瞬間がたまにあるんですね。それまでは実際のモデルや何かの代理としてしか形がないものが、それ自体がひとつの存在としても意味があるように生き生きしてくる時があるんです。その瞬間が、つくっていく上での一番の喜びかもしれません。
 
     
  安東 その時には、まだ目は入っていないんですか?着色は?  
     
  舟越 目を入れる前だし、色もつけていない段階です。でもそんな瞬間は毎回じゃないですよ(笑)。たまに、いい顔じゃないか、しかもこんな顔は誰もつくったことがないんじゃないかと思えたこともありますが、それはすごくうれしかったですね。「書庫に潜む豹」をつくった時などはそういう感じでした。多少錯覚もあるし、多少有頂天になってもいるんですけど、わざと自分をワクワクさせるように仕向けながら突っ走るんです。もちろんそれ以降の工程にも、いい作品になっていくための関所のような段階が幾つもあるので、最後になってへまをやってしまうということも確かにありました。でも手でつくっていく以上、それは仕方がないと思います。無限の可能性があるからこそよくもなったり、逆にどこかの可能性の段階でつまずいたり。ただ、もうこれでいいじゃないかと思ってしまって、あまり手を加えないというふうに守りにまわると、絶対によくはならないだろうと思います。昔、大相撲で金星をとった力士が、「どこでいけると思いましたか?」とインタビューされて「いけるとは思わずに、これでもか!これでもか!と思っていた」と答えていたんです。いい言葉だなと思ってメモしたことがありました。  
     


混沌を鮮明に語ること
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  安東 頭部のその先の手順はどうですか?  
     
  舟越 鑿を細かく使ったりサンドペーパーをかけたりして、皮膚のような滑らかな状態にしていきます。でも鑿痕を全部消す必要などは感じませんね。僕が思うイメージ、その人のもつ空気感が出ればいいのであって、すべてが人間になる必要はありませんから。それでOKを出せるある状態までサンドペーパーをかけ終わったら、地塗りの白を塗っていきます。あまりベタの白にもしたくなくて、一度塗った後にまたサンドペーパーで落としたり、部分部分で木肌が透けるぐらいにします。
 そこで目をくりぬく段階ですね。失敗するかもと思って結構怖いんですけど、しょうがないというような気もちです。そこからはもうモデルの写真やデッサンなどはあまり見ずに、彫刻の表情が生きているかどうかだけを見ながら進めていきます。くりぬいただけの時は目の中が暗い穴になっている状態ですが、無限の表情があるというか、それがなんともいい感じなんですよ。このまま目玉を入れたくないなとよく思うんですけど、やるべき仕事をしないことはいつでもできるから、やっぱりやってみて勝負すべきだろうと思って入れています。たとえば僕が死んだ後に、ある彫刻がどこかで落っこちて目玉がとれてしまったら、この途中の段階での顔になるわけで、それでもいいなと思ったりしますね(笑)。
 
     
  安東 目玉はどんなふうに入れるんですか?  
     
  舟越 目玉そのものは、ラグビーボールを二つに切ったような半球の大理石を彩色してコーティングしたものです。後頭部を切り取って、裏から瞼のところに目玉を押し当てるんですけど、両目をいっぺんに押さえられる瓢箪形の板を使用しています。その板の端を竹の釘で打ちつける固定の仕方は、鎌倉時代の技法を少し自分流にアレンジしました。後頭部を接着し終わったら、これで頭部は完成ですね。  
     
  安東 頭部と胴体は別々に進行するんですか?  
     
  舟越  頭部を鑿で彫り進めて形が立ってくる段階以前に、別に胴体をつくり始めています。両方のバランスを見ながらそれぞれで進行していくんです。ある時点で頭部についている首をちょうどいい長さにして、胴体にはめ込みます。ある角度からずれないように、内側で鉄パイプが支える仕組みです。  
     
  安東 胴体のつくり方は頭部と比べてあっさりしていますね。  
     
  舟越 最近は特にそうなんですけど、胴体にはどーんとした存在感だけ出してもらって、細かい性格描写のようなことはあまり施しません。作品の表情は顔から感じていると見る人は思うかもしれませんが、実は胴体の存在感がなければこの雰囲気は出ないという、そのぐらいの比重にしてあると思います。やっぱり胴体も、その空間の中で強い存在になるようには心がけていますね。
 
     
  安東 頭部と胴体の向きがねじれているような作品がありますが。  
     
  舟越 ほとんどの作品で首の位置は肩の中心から少しずらしてあります。これは、ミロのヴィーナスの話を父から聞いたことがヒントになりました。ずらしたことで、胴体の方は少し前の時間、首の方は少し動いた後の時間の位置についているとすれば、それを繋げることによって、作品の中に時間の経過を組み入れられるんじゃないかと思ったんですね。頭と体が前後逆になっている作品も幾つかあります。それも始まりは紙切れに何気なく描いたデッサンで、面白いんだけれども、どう見ても胴体が後ろ前になっているという。それは何だろうと思いつつ何年も放っておきました。後になって、「混沌としている自分」「不統一で矛盾している自分」というものを表わすためなら、後ろ前の胴体を使ってもいいんじゃないかという気がしたんです。混沌がテーマであっても、作品としては鮮明さがなければ訴える力が弱いと感じていて、後ろ前の胴体という表現ならその力をもてるんじゃないかなと思ったんですね。
 そんなふうに、思ってもみなかったような変な姿のデッサンが時々出てくるんですけど、それを自分の内面と関わらせずに作品にしてしまえば、ただのアイデア勝負、思いつきにすぎないという気がします。それは何か違うなと思っていて、このことを語るにはこの姿でいいんじゃないかと結びついた時につくるようにしています。だからいつも結構時間が経ってしまうんですけどね。
 
     


舟越桂の何月何日の証明として

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  安東 舟越さんが彫刻を完成したと思うのは、どういう瞬間ですか?  
     
  舟越 やっぱり最終的には彫刻から空気のようなものや、ある人が「いる」という感じが現れてきたら終えられると思います。他の人から見れば未完成と思えるようなところもあるかもしれませんが、僕は全く完璧主義者じゃないんですよ。それは恥ずかしいことかもしれないけれども、これ以上つくりこんでいって完璧に近づく可能性があるとしても、別にそうしなくてもいいんじゃないかという気もちです。作家によっては98点以下はダメと判断するんだろうけど、僕の場合には98点まで粘るときもあるし、80点を超えていれば、「あっ、これでいい」と思う時もありますね。どこかのんびりした人の彫刻という感じでもいいんじゃないかと思ったりします。
 それに、何年何月何日という時間を僕が過ごして、この作品はここで終わりにしたという記憶として、それはそれでいいような気がするんです。たとえばCDをすぐれたオーディオで聴けばベストの演奏が得られるけれど、ライブで最後にかすれた声の方が、その時一緒にそこにいたんだというリアリティをもって伝わったりする、そんな意味合いにちょっと近いかもしれません。僕にしても、もう少しどうにかなるかもしれないという点が見えたりもするんだけれど、そうしない方がいいという積極的な判断ではなく、やらないという感じです。この作品はこうだったということが、舟越桂の何月何日の証明のようにも感じるのかもしれませんね。だから、ずっと後になって作品を見た時、「ああ、これはここで止めたんだった。何か懐かしいな」という思いがあったりします。
 
     
  安東 形が立ってくる時も作品を終える時も、これでいいと判断される時に、何か降りてくるものを感じとる力が働いているような気がします。  
     
  舟越 僕はあまり本を読んだりしない分、何かが降りてきたり飛んできたりする瞬間はできるだけ逃さないようにしないと、いいものはできませんから……。わりと柔らかいアンテナを張り出して、いつも待っている気はしますね。テレビでも音楽でも人の話でも、どこからでもいいんですけど。キャッチしたものを煮詰めていったり展開させたりはなかなかしませんが、メモして心の中に置いておくということはわりとやっています。それで作品をつくっていく過程で、合格点を出すか出さないかという判断の時に、今まで降りてきたものの中を自然に通過させているんだと思います。それら全部がOKを出したときに、じゃあこれでいいという感じですね。そういう濾過する道具としての降りてきたものは、積み重ねてとってあるつもりです。