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  人間の不可思議な広さと野生
  「普通ではない姿」に込めたもの


人間の不可思議な広さと野生

     
  安東 最近の舟越さんの大きなターニングポイントになっているのが、東京都現代美術館で開催された個展(2003年4月12日〜6月22日)に出品した《夜は夜に》と《水に映る月蝕》(共に2003年)であると私は思います。ご自分としてはどうお考えですか。  
     
  舟越 時々言われますが、僕としてはそこで突然変わったとは感じてないのです。というのは、実在する人物の着衣の像から離れたイメージの作品になっていったときと同じで、新しいかたちを論理的に割り出したわけではなく、遊びのように描いたデッサンの中から、意味があるかどうかを吟味した上で作品にしてきたというこれまでと変わらない過程があるんです。
 特に《水に映る月蝕》はそれ以前の何シリーズか前のものとまったく同じ過程で出てきました。だから、ターニングポイントになっているとは感じませんね。あえて言うとすれば、かたちの意味が完全に自分の中で定まらないままスタートしてしまったのは初めてだった、ということです。
 
     
  安東 あのかたちの意味とは何だったのでしょうか?
 
     
  舟越 《水に映る月蝕》については、時々いろいろなことを考えるんです。
 お腹が丸く前後左右に膨らんでいて、それから右腕が左、左腕が右についている。お腹が大きな女性といえば普通は妊婦だと思うかもしれないけれど、そうではないというのははっきりしている。手を翼に例えて天使のようだと言う人はいたけれど、そうとも思えない。ただ、作り終えてしばらくしてから、「浮いているかたち」というイメージが僕にはありました。
 人間の頭ってこんなに小さなものなのに、行ったこともない宇宙の果てのことを明確にイメージできる学者だっている。野球選手は、150キロ以上で飛んでくる小さなボールを棒切れ1本で見事にミリ単位で当てることができる。人間の広がりを持った不可思議さ、精神の自由――そんなことが浮遊している姿につながっているのであれば嬉しいです。完全には自分では分かっていません。ただ、すごく好きな作品です。
 《夜は夜に》のイメージは、タマリンド(版画工房)での制作の前に、小さなメモ用紙に描いたスケッチで出てきたのですが、その前に僕は動物の姿を借りた人間の作品を制作し始めていたので、人間の持つ野生的な怖い部分をそんなにどぎつくない姿で描ければと思いました。
 男性性のようなものが意識にあったので、胴体は男性の性器のようなかたちになりました。僕にとっては冒険でしたが、意味合いがつながって見えた以上は作ったほうがいいと思ったのです。
 
     
  安東 今まで頭部が綿密に作られて、胴体は空間のありかたさえ提示できればいいというようなシンプルなものでしたが、最近では胴体も作りこんでいる印象を持ちます。  
     
  舟越  細かい顔の表情だけではなくて、胴体は胴体で何かを語り始めるということがあるんだと思うんです。これは最近、僕自身が興味を持っていることです。
 今までは胴体はストンとあまり多くを語らない姿として作って、細かいことは頭部で表現していたのですが、これだけ胴体を普通ではない姿にしていくと、それ自体が語りかける言葉を持ってくる気がするのです。例えば右肩についている左手や、ありえないお腹の膨らみは、作品が違う言語を持ち始めたような、僕のもっている陣地が膨らんできた気がして、本人としては嬉しいと思っています。
 
     


「普通ではない姿」に込めたもの
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  安東 今回の版画6点のうち、5点が彫刻にもなっている「スフィンクス」の像ですね。  
       
  舟越 彫刻の《夜は夜に》や《水に映る月蝕》を作った頃で、ただ単に普通の人間の姿ではない、姿を変えた形で表したかったのです。もちろん、いつも最終的に表したいのは人間なのですが。
 何を作るか決まっていなくてもデッサンから始めるのですが、何もない白い紙に頭、耳、と線を描いているときに、「あ、こっち」と線の方向が見えるときがあるわけです。地図の上に川が走っていくように、これでつながるって思える瞬間があるのですが、「スフィンクス」はそういう感じで出てきたかたちだと思うんです。
 あの垂れた耳を描いたときには、自分でも「何これ?」と驚きました。《水に映る月蝕》で女性の裸を作ってから、その後も女性の裸の胸のあるかたちが意識の中にあって、そこから半人半獣のスフィンクスが浮かんだのだとは思います。
 例えば、クノップフの絵に、非常に色っぽい女性の姿をした豹の作品がありますよね。この耳のかたちが出てきてから、男の筋肉質な身体に乳房がついていてもいいなというのは割と短時間でぱっと浮かんできたと思います。その姿が昔読んだノヴァーリスの『青い花』の中に出てきた少女と対話する「スフィンクス」のイメージにつながりました。
 
       
  安東 以前から、頭部が二つある人物や、首がありえない角度に回転しているような、「普通ではない」人物のかたちを彫刻と版画の両方において繰り返し制作していますが、それは何故なのでしょうか?  
     
  舟越 「普通ではない姿」で描くことによって、人間の「ある一部分」を表現することだと思うんです。
 歌舞伎でも、隈取のある顔は尋常な状態を超えた怒りに満ち満ちている場面を表現していたり、あるいは特別な人であることを示している。そういう姿で人間を伝えることはいままでの美術だけを見てもいくらでもあったことだと思う。それを真似て始めたわけではないけれど、あってもまずくないなという気がしました。
 元にあるのは、生きて僕自身が変わっていく以上、作品も変化して少しずつでもよくなっていかないと恥ずかしいということです。
 ただずっと同じところで満足して、うまさだけ成熟していくということはしたくないですね。
 僕の場合には特に、うまくいかずに何度も描き直して、消しゴムも使えないくらいにぐちゃぐちゃになってしまったデッサンの中に、はっと何か見えてきたり、あるいは偶然やってしまったことから、何か変だけれど面白いかたちが出てきた、という今までの経緯があります。そういう意味では、「うまくない」ことが、自分が変わっていく原動力になってきたところがあります。
 
     
  安東 紙に描いてみるということから常に始まっていて、ロジックで結論を詰めていくという制作方法ではないのですね。  
     
  舟越 全くその通りですね。恥ずかしいけれど、論理的思考というのはあまり持ち合わせていないと思います。悩みながら探しているという状況があって、しばらくするとぽっとこれが答えなのかなというようなものが見えてきたり、転がっているのを発見したり。それを温めてみて、これなのかと気がついたりすることが多いです。  
     
  安東 何かのかたちを発見したとき、それを表現するのは強い作家の意思だと思うのです。再度訊きますが、不思議な、極端に言えば「正常ではないかたち」をなぜ表現しようと思うのでしょうか?   
     
  舟越  アーティストだったら興味を持つはずです。それを何の迷いもなく「普通でないから」と切り捨ててしまうことができる人の作品――その先に僕はあまり興味を持てないと思う。
 例えばミケランジェロが《モーゼ像》を作ったときに、角が生えた姿にした。あれはすごい冒険だったと思うんです。
 また、能の般若の面は、嫉妬に狂った女ですよね。その造形感覚というのは理屈から割り出したものではなくて、そういう精神状態の女を作りたいと思ったとき、ぽっと見えたのだと思う。それを切り捨てずに、これは怒りや嫉妬を表すために、飛び抜けているけれど素晴らしいと考え、周りに「異形」と言われようとかたちにしてしまった人がいたと思うんです。
 僕自身がそういう世界を受け入れられるようになったことは嬉しく思います。20代の頃の僕は、「間違っても何でも」とは言えなかったかもしれない。でも今は、たとえ間違っていたとしても、現在いるところに居座っていてはいけないという気がするんです。
 
     
  安東 舟越さんにとって、胸がある男性の身体のような存在は美しいんでしょうか?  
     
  舟越 できあがりは美しいと思っていますよ。そう思わなかったら自分にOKを出しません。
 男性の身体に胸がついていることが美しいのではなくて、最終的に僕が感じる美しさは、違和感があったとしても全体でひとつの世界が出来上がっているか、成立しているか、ということで、それを僕は「調和」と呼んでいます。意外性やミスマッチを含めたものを取り込んだ上で全体のひとつの調和ができているかどうか。そのためには顔がつまらなければ駄目だし、線がどこかで失敗したままでは駄目です。たとえ線が一本で描けずに、何本かがつながったものであっても、それでOKになることもある。ただ、美しいと自分で思えることが前提です。